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─13─ 暗い噂

Author: 内藤晴人
last update Last Updated: 2025-07-20 20:30:00

 ふと人の気配を感じて、大司祭カザリン=ナロード・マルケノフは教典のページをくる手を止めた。

 顔を上げると、戸口に立つ人物と視線が合う。

 穏やかな面差しで入るようにうながすが、来訪者は立ちつくしたまま動こうとしない。

 一体、どうしたのだろう。

 疑問に思いながらも、大司祭は常と変わらぬ静かな口調で語りかけた。

「どうしたの? お入りなさいな」

 声に応じて長身を屈め一礼したのは他でもなく、ルウツ神官騎士団長のアンリ・ジョセだった。

 しかし常とは異なり、今日は白銀の甲冑姿ではなく、神官の制服とも言える飾り気の無い質素な長衣をまとっていた。

 柔らかく微笑む大司祭に対し、だがジョセは表情を崩すことなくわずかにうなずくと、後ろ手で扉を閉める。

 なおも所在無げに戸口に立ち尽くすジョセに、大司祭は無言で座るよう促した。

 再び一礼し腰をおろすなり深々とジョセは溜め息を吐き出す。

 それからようやく彼は、重い口を開いた。

「……宮廷は、まさに伏魔殿ですね。ミレダ殿下が今までご無事でおられたことが、不思議なくらいです」

 投げかけられた言葉に、大司祭は悲しげに眉根を寄せる。

 それは、予想通りの反応だったのだろう。

 更に深い吐息を漏らすと、ジョセはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して、卓の上に広げた。

「どこで誰が耳をそばだてているやもしれません。私が申し上げたいことは、すべてここに」

 万一何者かに聞かれれば、我々の命も危うい、そうジョセは言外に告げていた。

 理解した大司祭は、紙上に視線を落とす。

 文字を追うその顔は、目に見えて青ざめていく。

 それは他でもなく、先帝の崩御(ほうぎょ)にまつわる様々な噂だった。

 先帝は病死ではなく、毒殺されたということ。

 毒を盛った人物は先帝と深い関係がある人物であるということ。

 その人物は、今至高の冠を戴いている存在であるということ。

 大司祭の顔は、目に見えて青ざめていく。

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     ふと人の気配を感じて、大司祭カザリン=ナロード・マルケノフは教典のページをくる手を止めた。  顔を上げると、戸口に立つ人物と視線が合う。  穏やかな面差しで入るようにうながすが、来訪者は立ちつくしたまま動こうとしない。  一体、どうしたのだろう。  疑問に思いながらも、大司祭は常と変わらぬ静かな口調で語りかけた。 「どうしたの? お入りなさいな」  声に応じて長身を屈め一礼したのは他でもなく、ルウツ神官騎士団長のアンリ・ジョセだった。  しかし常とは異なり、今日は白銀の甲冑姿ではなく、神官の制服とも言える飾り気の無い質素な長衣をまとっていた。  柔らかく微笑む大司祭に対し、だがジョセは表情を崩すことなくわずかにうなずくと、後ろ手で扉を閉める。  なおも所在無げに戸口に立ち尽くすジョセに、大司祭は無言で座るよう促した。  再び一礼し腰をおろすなり深々とジョセは溜め息を吐き出す。  それからようやく彼は、重い口を開いた。 「……宮廷は、まさに伏魔殿ですね。ミレダ殿下が今までご無事でおられたことが、不思議なくらいです」  投げかけられた言葉に、大司祭は悲しげに眉根を寄せる。  それは、予想通りの反応だったのだろう。  更に深い吐息を漏らすと、ジョセはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して、卓の上に広げた。 「どこで誰が耳をそばだてているやもしれません。私が申し上げたいことは、すべてここに」  万一何者かに聞かれれば、我々の命も危うい、そうジョセは言外に告げていた。  理解した大司祭は、紙上に視線を落とす。  文字を追うその顔は、目に見えて青ざめていく。  それは他でもなく、先帝の崩御(ほうぎょ)にまつわる様々な噂だった。  先帝は病死ではなく、毒殺されたということ。  毒を盛った人物は先帝と深い関係がある人物であるということ。  その人物は、今至高の冠を戴いている存在であるということ。  大司祭の顔は、目に見えて青ざめていく。

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─12─ 苦悩

     騒動があった翌々日に、ロンドベルトが副官のヘラをはじめとするわずかな側近と共に、アレンタの主府へ向けて出立することが決まった。  つかの間の平和が訪れる、と言いたいところだったが、アルバートの心中は穏やかではなかった。  ロンドベルトが主府へおもむくということは、なにがしかの命令を携えて戻ってくるということを暗に示しており、その命令は十中八九出兵であることは明らかだったからだ。  そして何より、あのときのやり取りが頭の中にこびりついてはなれない。 ──お客人は、ルウツの大司祭猊下の養い子のようです──  墓地を前にしてのロンドベルトの言葉が、幾度となく脳裏によみがえる。  真実であれば、これまでの違和感にすべて説明がつく。  一方で、心のどこかで信じたくないという思いがある。  考えがまとまらず、アルバートは頭をかき回す。  その時だった。 「師団長殿、夜分に失礼いたします。よろしいですか?」  扉の外から聞こえてきた声が、アルバートを現実へと引き戻した。  どうぞと応じると開いた扉の向こうには、見知った顔の黒衣の兵士が立っていた。 「お休みのところ、申し訳ありません。本日宿直を拝命した者が、お客人の様子がおかしいと申しておりまして。来ていただけるとありがたいのですが」 「ご様子が?」  昼間の強引な尋問が、あの人に何やら影響をおよぼしたのだろうか。  不安を抱えつつも、アルバートは平服の上からマントを羽織ると、ランプを手に取り軍司令部の建物へと向かった。      ※  暗い夜だった。  漆黒の闇に溶け込む黒衣の兵士を見失わないよう、細心の注意を払って進むことしばし。  ようやくたどり着いたその部屋の前で、アルバートは大きく息をつく。  扉の向こうからは、うめき声とも泣き声ともつかないものが、途切れ途切れに聞こえてきた。 「先刻は叫び声が。中をうかがったのですが、特に変わったことは何も」  そうですか、と見張りの兵にうなずいて見せてから、アルバ

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  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─9─ 尋問

    「言葉で語っていただけないのなら、仕方がありません。貴方の記憶に直接うかがうしかないでしょう」  言葉と同時に、シエルはロンドベルトの思念が自らの脳裏に流れ込んでくるのを感じた。  常であれば弾き返すことはたやすいのだが、衰弱状態から完全に回復していない今、それに抗うことは不可能だった。 「嫌……だ……」  とぎれとぎれの声が、色を失った唇からもれる。  同時に、藍色の瞳から涙が一筋、こぼれ落ちた。         ※  そこに広がるのは、怒号が飛び交う血生臭い戦場だった。  振り返ると、背後には騎乗すらおぼつかないくすんだ金髪の青年の姿が見える。  青年の顔は蒼白で、その体は僅かに震えているようにも見えた。──気にするな。これは奴が勝手に選んだ道だ── だが、そんな青年を一瞥するなり『彼』は面白くなさそうに口を開く。  一片の感情も感じられない声が、その場に響いた。         ※ 「その方が、貴方をルウツへ繋ぎ止める存在ですか? もっと大きな存在がいらっしゃるのでしょう? 違いますか?」  ロンドベルトの問いかけに、だが彼は必死の抵抗を試みる。  しかし、黒玻璃の瞳に魅入られて、シエルの身体には力が入らない。 「はな……せ……」  ようやく絞り出された声に、ロンドベルトは陰惨な笑みで応じる。 「この状態で言葉を発したのは、貴方が初めてですよ。もう少し、お聞かせ願えませんか?」  シエルの両の手が、力なく寝台の上にだらりとたれさがる。  見開かれた双眸(そうぼう)は、虚ろに中空を見つめていた。          ※ ──……その顔だ……俺が一番嫌いな哀れみという名の自己満足……。たぶん俺も、戦場で祈ってるときは、そんな顔をしているんだろうな……──  そう言い捨てる『彼』を見つめている人間は三人いた。  白銀の甲冑を身にまとったおそらくは位の高い神官騎士、そして慈悲深い面差しの高

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─8─対峙

     薄暗い室内で、シエルはため息をついた。 司祭館から引き出され、駐留軍司令部内にあるこの部屋に押し込められてから、もう何日になるだろう。 室内にあるものといえば、机と椅子と寝台のみ。 明かり取りの窓から差し込む光の長さから察するに、そろそろ昼過ぎといったところだろう。 彼は再びため息をつく。 敵の手に手に落ち、挙げ句にその本拠地に連行されるとは、失態もいいところだ。 目指す『聖地』は目前であるにも関わらず、そこに行くことはできない。 あとどれくらいここにいれば、聖地に向かうことができるのか。 否、それ以前に生きてここから出られるのか、定かではない。 やはり、あそこで戻るべきではなかったのか。 けれど……。 そんな思いが、何度も脳裏に浮かんでは消える。 おそらくその答えは、決して導き出されることはないだろう。 三度ためいきをついたとき、前触れもなく重い音と同時に扉が開いた。 視線をそちらに向けると、そこにはエドナの軍神あるいは黒衣の死神と呼ばれるロンドベルト・トーループが、副官のヘラ・スンを伴って立っていた。「……一軍の将が一介の神官に何の用だ?」 機嫌悪そうに低くつぶやくその人に向き直ると、ロンドベルトは声をたてずに笑った。「ご無礼はお詫びします。しかし、それもこれも、貴方が何も語ってくれないからですよ。旅の目的はおろか、名前さえも。違いますか?」 ロンドベルトの言う通りだった。 彼の名前と身分は、所持していた通行証から判明したものであり、彼自信の口から語られた訳ではない。 まるで興味を示さないとでも言うようにそっぽを向く彼をよそに、ロンドベルトはさらに続ける。「その頑(かたく)なさがご自身の立場を危うくしている。それを貴方が一番理解しているんでしょうが……」「どう思おうと、そちらの勝手だ。俺をルウツの間者だと判断するならば、処刑するなり何なり好き

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